長野女子高等学校

NAGAJO DIARY今日のナガジョ

創立記念日

2020.05.21 Thu

本日、5月21日は本校の創立記念日になります。本校は今年で創立95年目を迎えました。1925(大正14)年の開校以来、それぞれの時代における社会の要求に応えながらも、一貫して女子教育を行ってきました。今日はその長きにわたる歴史の1ページをご紹介したいと思います。

<創立記念日のナガジョ記事>

2014.05.21 vol.1
2015.05.21 vol.2

2016.05.21 vol.3
2017.05.21 vol.4
2018.05.21 vol.5
2019.05.21 vol.6

 新型コロナウイルスの影響で大変な一年のスタートとなりましたが、今年度本校では「基本に立ち返る」という重点目標を掲げています。初心に戻る、原点回帰という意味を込めて、今回は本校の最も古いルーツに迫りたいと思います。少しばかり歴史学のアプローチ方法についても触れますので、申し訳ありませんが、今回は過去一番マニアックな内容となりました。お時間のある方はお付き合いください。
 学校の歴史を調べたいと思ったら、まずは学校記念誌をひもとくのが良いでしょう。○○周年記念誌という本が学校の図書館に配架されていると思います。本校では50周年誌から10年ごとに記念誌を刊行しています。私もその全てに目を通しましたが、肝心な創立時のことや学校を設立するにいたった経緯がよくわかっていませんでした。95年以上も前のことですから当然です。(設立から10年間程度のことが言い伝わっていなかったようです。)
 そこで、この謎を解明するために、今から8年前になりますが個人的な調査をしています。
 学校の設立には国や県の認可が必要です。これは今でも同じです。学校をつくりたい人が申請書を国や県に提出することになります。もちろん申請書の内容が不十分であれば、学校をつくることはできません。長野県に提出された資料は一定の保存期間を過ぎると、必要のないものは破棄され、大事なもの(歴史的に価値のある)は歴史の資料になります。俗に言う「県庁文書」です。県庁文書の多くは県立の公文書館に保管され、申請すれば誰でも閲覧することができます。長野県の場合は長野県立歴史館がその役割を果たしています。つまり、本校の設立に関する申請書も長野県立歴史館にあるということになります。

    
 長野県立歴史館が保管する行政文書(県庁文書)に、『私立学校明細簿』や「学務課教育関係文書」がありました。これで「なぞはすべてとけた」と思い、膨大な史料のなかから本校の名前を探します(今と違い私立学校の数はとてつもなく膨大で、その多くが現在は残っていません)。創立時の本校の名称は「長野和洋裁縫女学校」です。ところが、探せど探せどどこにもありません。
 次なる可能性としては「現用文書」です。現在も使われている文書は、まだ長野県庁にあるということです。まさか、ありえません。90年以上も前の文書です。現在も使っているわけがないので、普通はありえません。恐る恐る県庁の情報公開・法務課(県庁文書の管理をしているところです)に問い合わせをしました。回答をいただくまでに2週間程度はかかったと思いますが・・・。
 なんと、ありました!
 ただ、新たな問題として「現用文書」なので一般公開には条件がありました。私が一個人として(学校代表等ではなく)公開請求する場合は、現物には触ることができないということと、個人情報に関わる部分は非公開になるということでした。全然問題ありません。

そんなこんなで手に入れたのが、この「私立学校設立認可申請書」(コピー)です。学校の記念誌にも残されていない本校のもっともディープな資料になります。今回は原文のまま載せましょう。
「第一章 目的
女子中等教育ノ現状ニ鑑(かんが)ミ、将来ヲ慮(おもんばか)リ、日常生活ニ必要ナル智識ヲ授ケ、新時代ノ要求スル洋服並ニ和服裁縫ニ重キヲオキ、家庭婦人トシテノ本務ヲ全ウセシムルニ充分ナル實際的技術ヲ授ケ、猶(なお)進ンデハ獨立自営ノ道ヲ養成ス(以下略)」

 現在では問題となることも多い「良妻賢母」の思想は、当時としてはあたりまえのことでした。ただ最後に「独立自営の道を養成」すると掲げている点は、この時代の女子校としてはめずらしい、踏み込んだ内容になります。なぜこのような目的を掲げたのか、これが新たな謎となります。解き明かすにはその時代の風潮や初代校長の想いに迫る必要が出てきます。これが実は涙なしには語れない悲しい過去にもつながっていくのですが…。次号、100周年の記念誌には載せられたらと思っています。
 創立100周年まであと5年です。もっと頑張らなければと思う今日この頃です。

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