長野女子高等学校

NAGAJO DIARY今日のナガジョ

創立記念日のナガジョvol.10

2023.05.21 Sun

 本日、5月21日は本校の創立記念日になります。本校は今年で創立98年目を迎えました。グランドフィナーレまで、あと2年まできています。1925(大正14)年の開校以来、それぞれの時代における社会の要求に応えながらも、一貫して女子教育を行ってきました。毎年、「創立記念日のナガジョ」では、その長きにわたる歴史をテーマに沿って紹介してきましたが、この記事でついにvol.10、10年目に突入いたしました。

<創立記念日のナガジョ記事>

2014.05.21 vol.1
2015.05.21 vol.2
2016.05.21 vol.3

2017.05.21 vol.4
2018.05.21 vol.5
2019.05.21 vol.6
2020.05.21 vol.7
2021.05.21 vol.8
2022.05.21 vol.9

 さて、記念すべきvol.10では、「まだまだ」(五味太郎)続くという意味を込めて、学校史のなかでも未解決な事案を取り上げたいと思います。
 私は「創立記念日のナガジョ」を書くにあたり、過去の記念誌や学校誌の類にはほとんど目を通しました。100年ちかい歴史があるため、年代によって記述が異なる(歴史が変わる)という現象がいくつか発生しています。そのほとんどは、史的考証によって解決できるのですが、どうしてもわからないというケースに稀に出会います。
 例えば、本校「校歌」、歌詞の正しい漢字表記はわかっていません(少なくとも3パターンほどあり、もっとも古い記録は楽譜になりますが、そこでの表記は「ひらがな」です)。こうした謎を私は「女子高七不思議」(実際には書き留めているだけで37不思議あります)と呼んでいます。創立100周年(閉校)までに解決しなければ、おそらく一生謎のままでしょう。
 今回は七不思議のひとつ、本校の「場所」に関する謎を紹介します。1925年の創設当時、本校はどこにあったのか、実はその場所がよくわかっていません。本校創設時の校名は「長野和洋裁縫女学校」といいます。長野市の旅館「自彊館(じきょうかん)」の一室を借りて学校をはじめたとされてます。ただし、この自彊館の場所については、「県町」とする説と「南石堂町」とする説に、学校誌の記述もわれています。
 最新の90年誌では「南石堂町」、80年誌も同様です。80年誌は丁寧に地図と写真を掲載しており(下記)、信ぴょう性が高いように感じます。実際、現在の自彊館は「南石堂町」にあります。

 しかし、80年誌以前(40~70年誌)は、基本的に自彊館の場所を「県町」としています。そして、最も古い本校に関する公的資料である「私立学校設立認可書」(1929年、県庁文書)における本校の住所は、「長野市大字南長野南県町637番地32番戸 但シ長野市郊外ニ建築ス可ク土地選定中」(現在の番地とは関係ありません)とあります。この認可書に添付された校舎図を当時の地図「長野市中部地圖 (實地細密調査)」(1925年)と照らし合わせると、「南県町」で間違いないと思われます。「県町」(南県町を含む)という解釈は、ここらきたものと推測できます。


 しかしながら、古ければ正しいとは限りません。「長野和洋裁縫女学校」の前身である「シンガーミシン裁縫刺繍教習所」(1925年以前に初代校長の原山芳菊先生が開校)の場所は、『長野市誌』によると「千歳町」とされています。長野市誌ではその根拠を示していませんので、これ以上の追究はできませんが、「長野和洋裁縫女学校」のはじまりは「千歳町」とすることも可能です。

 実際の公表上、本校ホームページや生徒手帳、学校要覧の沿革は「県町」。学校誌は「南石堂町」。県への公式な申請書は「南県町」。外部資料(長野市誌)では「千歳町」とも読み取れる状態です。まさに七不思議にふさわしい摩訶不思議な状態です・・・。

 最初に述べた通り、この不思議は解決していません。いくつかの仮説は立てられると思います。例えば、自彊館の移転、町名変更や区画変更、そもそも校舎を転々としていたなどです。もう少し調べれば、納得のいく答え(正解ではない)にはたどり着けそうな気がします。

 半世紀以上放置されているこの謎を、誰か「探究」してみませんか。

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